人生は山岳地帯

しにです。思ったことや趣味について適当に書く日記みたいなやつです。

タイトル

まだあの日々が

 

私にとっての非日常だったあの日。

 

 

人生で初めてオールした日のことを思い出す。

 

なぜか眠れなくて、興奮してたような

 

いやでもよく覚えてはいない。

 

まだ真っ暗では怖くて眠れないから、間接照明とテレビをつけた薄暗い部屋の中ケータイを見ては置いて、考え事しては天井を眺めていた。

 

すごく長かったような、あっという間だったような

 

レースのカーテンから透ける外の景色が少しずつ明るくなった時、朝だ。と思った。

 

なぜか空気は澄んでいて、少し明るくなってきたのでもういいだろうと間接照明を切った。

 

夜みたいな朝の中、覚えている。

 

キリンジのプレイリストを流していた。今はあの頃よりも曲を沢山知っている。一人暮らしでずっと聴いていたから。感慨深いものだ。

 

眼が重たい。

 

外は薄く明るく初夏なのにひんやりとしていて、何より新鮮な気持ちだった。

 

初めて朝をそのまま迎えて、好きなアーティストの初めて聴く曲を流して、ただベッドの上にいるだけ。

 

 

美しい日々。とある日の日常。なんてない日だった。

心の中の聖書

みんながみんな

 

心の中にそれぞれの大切なことが書いてある聖書を持っていると思う。

 

そこには自分が楽しく、あるいは正しく、または楽に、幸福に生きていくために気付かぬうちに探究した結果が載っている。

 

 

当たり前に生きていくということは大変だ。

 

何かに縋りたい、誰かを頼りたい。だけど結局私は私で、私が必要としているものは私にしか分からないし、私のことを心ゆくまで理解しようとしてくれる存在も結局は自分自身であると思う。

 

自分自身がいかに自分自身を許して生きていけるか。自分を受け止めて生きていけるか。いつも自分と向き合ってばかりだ。

 

 

心の中の聖書には、私が生きていく上で大切な言葉、貴重な経験、年を重ね今まで生きてきた深みがある。そして、それはこれからも増え続ける。

 

私がこれからも生きていくこの人生をより楽しく、あるいは正しく、または楽に、幸福に生きていくために必要なことを心の中の聖書に書き続ける。

 

 

私の人生というこの一つの世界を支配する神は、ある意味自分自身なのかもしれない。

 

 

 

 

生きてるだけで偉い とは?

生きてるだけで偉いって言葉は前まで嫌いだった。

 

生きてるだけで偉いとか言われても実際生きてるだけで色々求められるし、逆に生きてるだけで邪魔の間違いじゃない?って思ってたから。

 

色々考えて気付いたんだけど生きてるだけで偉いって言葉は人から言われる言葉ではないということ。

 

生きてるだけで偉いという言葉は、自分自身に求めすぎて自分自身に失望したり、頑張りすぎや無理しすぎの自分に対してもっと適当に生きろ。人生なんてたまたま始まったんだから。ってマインドで使うべきだなって思った。人から言われるべき言葉ではなく、自分自身の中の聖書に付け加えるべき言葉なのだと。

 

人から生きてるだけで偉いって言われるとなんかムカつくから。黙れ!って思っちゃう時もあるし。

 

結局自分の人生の責任なんて人に委ねちゃいけない。色々人から言われて行動して、それで傷付いたりしても返ってくる責任は全部自分負担。

 

だからこそもっと周りに振り回されず適当に自分を許しながら生きる方がいい。

 

あー今日も生きてるだけで偉すぎる。

 

 

日常こそ非日常

今日でここでのアパート暮らしは最後かー。

 

 

初めての町、初めての景色、初めての夜、初めての人、初めての感情。

 

初めて寝て、起きて天井見た時に本当に非日常を感じたあの始まりを思い出す。

 

きっとこの目覚めた瞬間に見ている日常の景色は明日からは非日常、というより戻らない過去となるんだね。この家も、この町もこんなに知ってて触れていて、匂いや風、日の眩しさ温かさ、雨の日の部屋の暗さ、窓から見た景色、あの日、季節の移り変わり、いつものルーティーン、いつもの道が明日からは何よりも遠い存在になる。一生戻らない。

 

 

この2年間はいつの間にか日常となった非日常だったんだね。

 

 

あーほんとに忘れたくない。私が1人で泣いた日もいい事があって喜んでた日も苦しみがあった日も全部この部屋は覚えていてね。私がここにいたこと絶対に覚えていてね。短い間だったけど、この日常を愛していたよ。本当にありがとう。

 

 

明日から私のいない私の部屋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛情と言ってしまえば聞こえは良い

人のことが無性に心配になったり

 

誰かのために動こうとしたり

 

良いことだけど過度になっている時がある。

 

まず自分が自分の人生を生きているのと同じように

 

その人だってその人の人生を生きている。

 

その人はその人で必死に生きている。自分だって体のことは自分で気をつけたり事故に遭わないように気をつけたり

 

常に一生懸命のはずだ。

 

自分が思っているより、自分の心配は相手に届かないことだってある。

 

もちろん人を大切に思う心は常に持っていたい。大切な人の健康や幸せを願っていたい。

 

でもそれが行きすぎて自分自身を縛っている事があるのかもしれない。

 

心配はしたい。大切にしたい。だけどそれ以上に自分には自分の人生があり、自分の人生を何よりも大事にして過ごさなくてはいけない。

 

私という存在が自分の人生を大事にしているということは、同時に相手という存在もその自身の人生を大事にしているということになるのだから。

 

 

人というものは全て、ある意味紙一重的な存在なのかもしれない。

理由はいつだってシンプル

やりたいからやる

 

楽しいからやる

 

好きだからやる

 

物事に難しく複雑な理由なんて必要ないはず。

 

 

好きなことは好きと言いたい。

 

分からないことは分からないと言いたい。

 

当たり前で簡単なようで難しいことナンバーワンな気がする。普段できていない事のように感じる。

 

そりゃ永遠に幼少期気分っていうのは違うんだけど、もっと素直にまっすぐになっても良いんだろうな。

 

 

好きなことは好きと言う。当たり前だけど難しい。いつかは出来るようになれたら。頭の片隅にだけ、とりあえず置いておく。